日経エコロミー 連載コラム 温暖化科学の虚実 研究の現場から「斬る」!

国立環境研究所 地球環境研究センター 江守正多

第12回 温暖化イメージ戦争の時代を生きる

2010年3月18日

こんにちは、国立環境研究所の江守正多です。いわゆる「クライメートゲート」事件に始まった一連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)バッシングなどにより、温暖化の科学への信頼が低下しているといわれています。そんな中、このコラムは最終回を迎えることになりましたので、今回は「あとがき」っぽく、この問題をめぐるまったく個人的な考えをいくつか述べたいと思います。

この問題について、日本での報道はそれほど見かけませんが、欧米では主要メディアで大きくとりあげられ続けているそうです。その内容は、単純なバッシングも多いようですが、丹念に調べて書かれているものもあります。中でも英国のジャーナリスト、フレッド・ピアスによる英ガーディアン紙の特集記事は圧巻で、クライメートゲートで流出したメールにより明らかになったことがドキュメンタリーとして楽しめるくらいに奥行きのある語られ方をしています(それでも当事者やその周辺から事実関係誤認などの指摘があり、記事への書き込みとして一緒に読むことができます)。一部の報道をかじって、欧米は温暖化科学バッシング一辺倒だと思っている人には、一読の価値があるでしょう。

日本にはない?懐疑論のロビー活動

さて、温暖化科学の信頼性に関する報道は、なぜ日本では少ないのでしょうね。情報源(たとえばイーストアングリア大学)の遠さ(物理的な距離と、言語的・心理的な「距離」)による取材の難しさ、国民の関心の薄さということがまずあるのだろうと思いますが、それ以外に、日本では温暖化懐疑論・否定論の組織的なロビー活動が盛んでないことが関係しているような気がします。

欧米の石油・石炭業界や保守系シンクタンクが、政府による温暖化対策の規制導入を妨害するためのロビー活動として、温暖化懐疑論・否定論を組織的に広めているというのはよく聞く話です。僕はその真相について詳しくはありませんが、アル・ゴア米元副大統領の「不都合な真実」でも、ブッシュ政権に雇われた石油業界関係者が政府の科学レポートを懐疑的な表現に修正していた話が出てきていましたし、彼らの活動を分析した詳細なレポート論文も出ています。このような背景があって、今回の騒動では、規制を嫌う自由市場主義などの保守系勢力を応援するメディアが温暖化科学バッシングを千載一遇のチャンスとばかりに大きく報道し続け、それに応じてそれ以外のメディアでも扱いが大きくなっているという面があるのではないかと想像します。

日本にはそれが無いわけで、せいぜいそのような欧米の論争を断片的に拾ってきて紹介する人がいるか、個人的な考えから意見を述べている(ようにみえる)論客が少数いる程度です。平和といえば平和な状況です。

懐疑論に引かれるのはどんな人?

さて、欧米に比べれば平和な日本の温暖化科学論争なのですが、かといって、もちろん懐疑論の影響が無いわけではありません。個人的な経験からですが、どうも懐疑論に引かれる人というのは、ある種の知識層に多いような気がしています。人口に占める割合はそれほど大きくなくても、企業や行政などの上層部に懐疑論ファンの方がたまにいらして、組織の意思決定にも影響を及ぼしているという話を聞くことがあります。

そういう人たちを想像したとき、気持ちとしてよくわかる気がするのは、「みんなはだまされても、自分は簡単にはだまされないぞ」という意識が働いているのではないかということです。権威を疑ったりメディアを疑ったりする姿勢を持つことは、基本的には大事なことだと思います。この不透明で不安定な現代社会において、物事をやすやすと信用しないことは生き抜くためのすべでもあるでしょう。そのような観点からは、温暖化の科学が正しいといわれてもうのみにしないのは、僕は悪いことではないと思います。そして、温暖化の科学はなかなか複雑ですので、よく納得してからでないと信用できないということになると、すぐに全部は信用できないのも仕方がないかもしれません。ですので、そういう気持ちの人たちには僕は一定の理解を示すことができます。

僕が理解できないのは、「温暖化の科学はインチキに違いない」と信じて疑わないタイプの人です。気持ちを想像すると、「みんなはだまされているが、自分だけは本当のことを知っているぞ」という側に立ちたいという意識(先ほどと似ていますが少し違うことに注意してください)が働いているのではないかと思います。

このような主張の人たちがどれだけ本気でそう信じているのか、僕には知るすべもありませんが、何らかの先入観がなければ、なかなかそのような境地には至れないような気がします。先ほど触れたように、欧米では政府の規制を嫌う自由市場主義などの保守系イデオロギーが温暖化懐疑論と親和性が高いようなのですが、日本では少し違って、政府が温暖化対策を進めることによって原発を推進しているとか一部の企業をもうけさせているという先入観が、イデオロギーとして作用している場合があるようにみえます。

科学論争というよりも……

このような人たちは、温暖化科学に対する際と、懐疑論に対する際に、異なる基準を適用しているはずです。たとえば、IPCCの報告書にいくつかの細かい間違いが見つかったことを受けて、「1つでも間違いがあった報告書は全体が怪しい」と決めつける人がいるかもしれません。それならば、僕はいわゆる懐疑論の書籍で今までに読んだことのあるものには、それぞれ1つ以上の明らかな間違いがあることが指摘できます。すると、それらの書籍ももちろん全体が怪しいことになりますね。

また、クライメートゲートは確かにスキャンダルの面がありましたが、ブッシュ政権のときの石油業界関係者による報告書書き換えだって、すごいスキャンダルです。それでも、懐疑論は信用するが、IPCCは信用しないという人がいるとしたら、理性的な判断とは別のところで、温暖化の科学は否定すると最初から決めてしまっているということでしょう。

このような状況認識に基づいて、僕は、温暖化の科学をめぐる議論は、科学論争というよりも、「イメージ戦争」の側面が大きいと前から思っています。

もちろんこれは、科学論をまじめにやらなくてよいという意味ではありません。正確な科学的知識をわかりやすく、大勢の人に語りかけていく必要があると思います。科学的な内容について疑問が提示されればきちんと考え、説明する必要があると思います。主流研究者は研究の透明性を高め、IPCCも今まで以上に客観性と透明性を高め、報告書の間違いを徹底して無くすための努力をする必要があると思います。

僕が言いたいのは、それら「のみ」によって、この戦いに「勝てる」と思ってはいけないのだろう、ということです。

今後、科学の側がどんなにベストの対応をしたとしても、社会において温暖化問題をめぐるイデオロギー対立が続く限り、また、仮に対立が政治的に決着したとしてもそれに対する不満がくすぶり続ける限り、「イメージ戦略」としての温暖化懐疑論が消えることはないでしょう。そして、僕たちはそれとずっと付き合っていかなければならないのだろうと思います。

整合性・裏取り・中立性に注意を

最後に、このイメージ戦争の中で誰かのイメージ戦略に翻弄されてしまわないために、僕が情報を受け取る際に気をつけていることと、情報を発信する際に気をつけていることを書いておきます。読者のみなさんの参考になれば幸いです。

情報を受け取る際に気をつけていることは3つあります。1つめは、内容の整合性に注目することです。特に科学的な解説などでは、1つの主張の内部での論理的な整合性が極めて重要だと思います。これが崩れている場合、書き手の中でよく練れていない主張であったり、何かを批判するためなどに手当たり次第に寄せ集めてきた情報であったりする可能性があります。また、同じ書き手の複数の著作の間で整合性が乱れているかどうかにも注意するとよいでしょう。

2つめは、「裏を取る」ことです。これは昨年10月のコラムでも書きました。論理的に筋が通って見える文章でも、引用やグラフの原典を調べると、原典の文脈から切り離されて、あるいは勝手に加工されて、都合よく使われている場合があります。最近はインターネットでかなりの文献が探せるようになりましたが、それでも裏を取る作業は手間がかかります。しかし、ある情報を本気で信用するかどうか判断する際には、しっかり裏を取る必要があるでしょう。

3つめは、書き手の中立性に注意することです。書き手が中立な専門家を装って自分の意見や立場を忍び込ませてきている場合があるので、注意深く見抜く必要があります。「…べきである」などと書いてあれば、そう結論できる十分な根拠が書いてあるか吟味した方がよいでしょう。しかし、論理的で、引用も正確で、客観的な文章でも、実は中立とは限りません。それは、書き手は「何を書くか」だけでなく、「何を強調して書くか」や「何を書かないか」によっても、意見や立場を忍び込ませることができるからです。これを見抜くのは難しく、同じテーマについて別の書き手によって書かれた複数の情報を読み比べる必要があるでしょう。

中立性に配慮した解説者は特に重要

さて、僕が情報を発信する際に気をつけていることは、これらのちょうど裏返しです。つまり、論理的な整合性と正確な引用に配慮し、専門家としてできるだけ中立なポジションを確保することです。最後の点は特に重要です。僕が何らかの立場やイデオロギーに偏っていると思われたら、それを受け入れられない人は話を聞いてくれなくなるでしょう。

温暖化の科学は、どんな立場やイデオロギーの人にも同じように共有されなければならないので、中立性に配慮した解説者の存在は特に重要だと思っています。そのような考えから、僕はこれまで、科学の不確実な部分も隠さず説明し、温暖化の深刻さを一方的にあおらず、価値判断の入るところでは個人的な意見を専門家としての意見と区別して発言するように心がけてきました。

しかし、注意してくださいね。みなさんにとっては僕もイメージ戦争のプレーヤーの1人ですから、僕も中立性を装っているだけかもしれません。それを吟味するのは、みなさんの仕事です。

では、こんなところで、このコラムは終わります。1年と少しの間でしたが、読んでくださったみなさん、どうもありがとうございました。

またどこかで僕の書いたものをご覧になることがあれば、どうぞ厳しく吟味してみてください。みなさんの肥えた目に応えられるように、論理性、正確性、中立性を磨いておきます。

[2010年3月18日/Ecolomy]

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