酸素の観測を支える標準ガス
1. はじめに
人々が石油や石炭などの化石燃料を大量に燃焼することによって、大気に含まれている二酸化炭素(CO2)が徐々に増加しつつあり、これが地球温暖化の原因となっていることは皆さんご存知かと思います。ところで、燃焼の際には酸素が消費されてCO2が生成します。当然、化石燃料が燃焼する際も酸素の消費とCO2の生成が起こっており、化石燃料の燃焼ではCO2分子1個生成するのに平均で1.4個の酸素分子が消費されると言われています。
ところで、グローバル・カーボン・プロジェクト(GCP)の発表では、現在の化石燃料の1年間の消費量は、炭素量換算で約100億トンと推定されています。これらがすべて燃焼に使われたとすると、大気中のCO2濃度は1年間で4.7 μmol/mol*1程度増加することになります。しかしながら、実際に観測されている大気中のCO2濃度の増加量は年間2 μmol/mol程度で化石燃料の消費量から見積もられる増加量の半分以下となっています。これは、大気中に放出されたCO2が海洋や陸上生物圏により吸収されることが原因です。つまり、化石燃料の消費による大気中のCO2濃度変化を評価するためには、海洋や陸上生物圏のそれぞれの吸収量の情報をえることが重要であることがわかります。
では、それぞれの吸収量を評価する方法はないのでしょうか?実は、大気中の酸素濃度減少を精確に観測することで、陸上生物圏のCO2吸収量を推定することができるのです。大気中の酸素濃度の減少速度は、化石燃料の燃焼による消費量と陸上生物圏からの酸素放出量で決まります(実際には、海洋から放出される酸素量も考慮する必要もありますが、ここでは省略します)。一方、化石燃料の燃焼による酸素の消費量は統計値から推定できます。したがって、年間μmol/molレベルで減少している大気中の酸素濃度変化を精確に観測できれば、陸上生物圏の酸素放出量、すなわちCO2吸収量を見積もることができるのです。
2.酸素濃度の変化をどのくらい精確にはかってるの?
大気に約21 %(210000 μmol/mol)も含まれる酸素の濃度変化をμmol/molレベルで捉えるためには、1 μmol/mol程度の精確さ(相対値で約0.0005 %の精確さ)で酸素濃度の変化を測定する必要があります。
この要求を満たすために、干渉計、質量分析計、磁気式酸素計、ガスクロマトグラフ等、さまざまな原理を用いた測定法が開発されています。これらの装置は、試料空気と参照空気を同時、または交互に測定することにより、試料空気と参照空気に含まれる酸素濃度の差を検出します。この差を長期にわたって測定すると大気に含まれる酸素の濃度変化を知ることができるのです。現在では、多くの機関が、高圧容器(ボンベ)に充填した実大気を参照空気として用いて、1 μmol/mol程度の精確さで酸素濃度の変化を測定しています。
3.なぜ、参照空気中の酸素濃度が必要なのか?
前節で説明した通り、酸素濃度の変化は、参照空気を基準として、そこからの偏差を測定するという手法で決められています。一方、CO2等の測定では、濃度のわかっている標準ガスを基準として、試料空気に含まれる濃度そのものを決めています。CO2等とは異なり、酸素の観測で偏差のみを測定する手法が使用される理由は、精確に酸素濃度が決められた酸素標準ガスがつくれないためです。もちろん、これまでもこのような酸素標準ガスをつくる試みがなされてきましたが、必要な酸素濃度の精確さが得られなかったため、偏差を測定する手法で酸素を観測しています。
ところで、この方法には、異なる参照空気を使用すると、同じ試料空気の測定値であっても、得られる酸素濃度差に違いが出てしまうという問題があります。酸素を観測している機関は、それぞれ異なる参照空気を使用しているので、そのままでは、それぞれの機関が測定した値を直接比較することができないのです。したがって、それぞれの機関の測定値を直接比較するために、参照空気の酸素濃度を精確に決めて、それらの違いを補正する必要があるのです。
また、酸素の観測は、長期間にわたり実施されるので、消費にともない参照空気を交換することがあります。この場合も、参照空気の交換前後で酸素濃度の違いを補正する必要があります。
4.なぜ、酸素標準ガスが必要なのか?
酸素は、既に説明したようにさまざまな分析装置で測定されます。ただ、これらの分析装置から得られるのは、酸素濃度ではなく電圧等の値(出力値)になるので、酸素濃度を決めるには、大気とほぼ同じ組成をもち酸素濃度が精確にわかっている酸素標準ガスを測定して、出力値に酸素濃度の目盛り(酸素濃度スケール)をつける必要があります。ここで、酸素標準ガスを大気とほぼ同じ組成にするのは、分析装置の出力値と酸素濃度の関係が成分の違いにより変化するためです。
また、参照空気の酸素濃度を1 μmol/molの精確さで決めるためには、酸素濃度の目盛りの精確さが1 μmol/mol以下であることが求められます。酸素濃度の目盛りを精確につけるために、酸素濃度が1 μmol/mol以下の精確さで決まっている酸素標準ガスが必要になるのです。しかしながら、このレベルの酸素標準ガスを調製する技術がなかったことから、産業技術総合研究所計量標準総合センター(以下NMIJ)では、この難題に挑戦いたしました。
5.どうやって酸素標準ガスをつくるの?
酸素標準ガスは、図1のようにCO2とアルゴンの混合標準ガス(CO2/Ar標準ガス)、酸素、窒素を順番に9.5 Lのアルミニウム製ボンベに充填して、それぞれのガスの充填前と後にボンベを秤量するという手順でつくられます。もちろん、大気にはこの4成分以外にも多くの成分が含まれていますが、その他の成分は濃度が低いので、影響は小さいと考えられています。ボンベに充填されたガスの質量は、それぞれのガスの充填前と後に測定されたボンベの質量差から計算されます(図1)。この計算されたガスの質量をモル質量で割るとガスの物質量が求まるので、酸素濃度である物質量分率を決めることができます。このようにガスの質量から各成分の濃度を決める調製方法を質量比混合法と呼んでいます。
酸素標準ガスには、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素が、それぞれ1000 g、300 g、17.2 g、 0.8 gくらい含まれています。酸素濃度を0.0005 %の精確さで決めるためには、単純に考えると、酸素の質量を1.5 mg(300000 mg × 0.0005 % = 1.5 mg)の精確さが必要となりますが、他にも考慮すべき要因があるので、実際には1 mgが目標の精確さになります。
これらのガスの質量は、高性能の天秤でボンベを秤量すれば、簡単にわかりそうですが、実際にはそううまくいきません。ボンベの秤量値が、浮力、天秤の感度、ボンベ面に吸着する空気中の水分量の変化等によって、変わってしまうからです。
これらをすべて考慮することは非常に難しいので、実際には、標準ガスを充填するボンベ(これを試料ボンベと呼ぶ)と同じ形、材質のボンベ(これを参照ボンベと呼ぶ)を用意して、図2(左)の秤量システムを使って、両者を交互に測定することにより(図2(右))、参照ボンベとの質量差を求めています。両方のボンベは、浮力、天秤の感度、吸着水分量の変化等の影響を同じように受けると考えられるので、両方のボンベ質量の差を取ることで、これらの影響をキャンセルしています。
このように、ガスの質量は、精確に測定されたガスの充填前と後の参照ボンベとの質量差の変化から求められています。
ただし、ガスの質量を決めるのに必要な精確さ1 mgは、この方法を用いても達成できませんでした。試料ボンベに充填される標準ガスの圧力は、大気圧の100倍以上になります。試料ボンベに充填されたガスは圧縮されて発熱するため、試料ボンベの温度は上昇します。当初は、この試料ボンベの温度変化により、ボンベ表面に吸着する水分量が変化してしまうことが、ボンベの質量差の精確な測定を妨げる最も大きな要因であると考えていました。
しかしながら、研究を進めるうちに、精確さを妨げる要因が、吸着水分量の変化ではなく、試料ボンベと周囲の温度との差で生じる上昇流または下降流であることがわかりました。発生した上昇流または下降流によって試料ボンベが上または下に引っ張られるために、試料ボンベの秤量値が変化していたのです。この試料ボンベと参照ボンベの温度差と両者の質量差の関係を調べたところ、図3のように、試料ボンベと参照ボンベの間の温度差が0.1 ℃変化すると、質量差が1.4 mg変化することがわかりました。
最終的に、試料ボンベと参照ボンベの温度差がなくなってから質量差を測定することにより、ガスの質量を1 mgの精確さで測定することができるようになりまたした。その結果、NMIJでは、世界に先駆けて、1 μmol/mol以下の精確さで酸素濃度が決められた酸素標準ガスをつくることができるようになっています。
6.大気中の酸素濃度
では、大気に含まれる酸素濃度はどれくらいなのでしょうか? われわれは、国立環境研究所に協力して頂き、2015年1月から12月までの間に波照間島で採取した大気試料を測定いたしました。その測定結果から、2015年の波照間島の酸素濃度が、20.9339 ± 0.0001 %であったことがわかりました。
7.最後に
われわれは、各機関の観測データを直接比較可能にするために、標準ガスを開発いたしました。しかしながら、開発した酸素標準ガスは、実際の観測で利用されなければ、無用の長物になってしまいます。そこで、産業技術総合研究所エネルギー環境領域、国立環境研究所、東北大学、スクリップス海洋研究所と協力して、開発した酸素標準ガスを用いて、各機関が維持する酸素濃度スケールの比較等もおこなっています。このような活動を継続していくことにより、世界各地で観測された酸素濃度が直接比較可能になることが期待されます。